本当はアップするようなものでもないかなとおもったけれど
偶然の必然かなという気もしたし。
ヘイ彼女。
な、10月某日のつぶやき。
<プロローグ>
いや。
その、己の恐怖や畏れと戦う姿を愛している。
<1>
まずわたしの定義(前提と言ってもよい)を述べておく。
言葉というのはただの“ラベル”であり、
ゆえにラベルが同じでもそこについてくる中身は違い得るから。
完全なる一人(=一人)≠独り
と使う。
そして、
「完全ではない一人」
というのがあると考えている。
ついでに、便宜上(他によい言い換えが思いつかないから)
独り≠孤独
むしろ
一人≒孤独
としている。
<2>
自分の人生はあくまで自分のものでしかない。
それは幸せであると同じくらい、畏れである。
畏敬の、「畏」。
『あくまで、自分一人の。』
その幸福と畏敬。
そこに、
そもそも存在というものは孤独である
という本質が在る、と。
しかし、人は独りで生きているわけではない、というのも大いに納得する。
支え、支えされ、生きている。
ゆえに、
一人であって、独りではない。
というのもまた本質だと思っている。
雅が言った言葉だけれど、
ほんとうにその通りだとわたしも思ったから
拝借している。
そして
自らが家族をつくるという行為は、大抵は、
少なくとも
「完全なる一人」ではなくなること
であろうと思う。
それは自らの意思で
(己の)人生への、(他者の)決定的な介入を歓迎するということだろうから。
というか家族つくっといて完全なる一人を貫いちゃったら
何がしたいの(それは家族と呼べるの)と問いたくなる。
つまり
家族をつくった時点で、ひとは
一人だけれど、完全なる一人ではなくなり、独りでもない。
存在になるのだろう。
<3>
雅はもう完全なる一人ではなくなった。
ていうか家族つくっといて一人だとか言ってたら
雅さん蹴っ飛ばす(言わないだろう)
わたしの現段階の戦いにおいて
これまでわたしを強くしてくれていたのは「完全なる一人」の雅。
だから、
今の雅じゃそうはいかない。
否、
ばななさんとか森博嗣さんとか雅さんとか、
家族をつくろうが何だろうが(そもそもの)孤独について理解しているひとの存在には
“前提として”支えられている。
なかでも雅の存在がわたしのなかに築いた前提の大きさ、揺るぎなさ。
前提は最重要である。
最重要ではあるが
しかし具体的戦いにおいては
特に何かをもたらすわけでもない
わたしの具体的な戦いにおいては
一人であることを痛々しいほどに見据えている存在が、
ほ、し、い、のだ
その存在はわたしにとって“装備”みたいなものになる。
雅はそういう存在だった。
孤独を知っているその背中を一生慕っているけれど、
もはや完全には一人とは言えない存在、
今の雅は、
今のわたしの装備には為りそうもない。
いつかわたしも家族をつくれるときが来たら(つくりたいし)
また為りうる時がくるかもしれないけれど、
今は、
きっと為り得ない。
その事実は
率直に言えば、哀しい
<4>
わたしはまだ、自分は完全なる一人を理解する時期だと思っている。
まだしばらくこの段階をしっかりふみしめていたいと思う
だから、痛々しいほどの一人、の存在をさがす
わたしのために、さがす。
今は装備が欠如しているみたいなものだ
だからときどき
ああ雅さんがまだ一人だったらなと思うことがあるよ
雅みたいにしっくりくる存在がそう簡単に見つかるわけもないから。
念のため
家族をつくったからには家族まるごと幸せでいてほしいし
一生独身でいて欲しかったわけでもないことは書いておく。
断じて。誓って。
<5>
けれど
雅はもう、その段階を終えちゃってよかったの?
と思うことがある。
わたしが今年25歳だからだろうか。
わたしはまだこの段階を終えたくないな(もちろん一生は嫌だけど)。
雅もそういう人種かと思っていたから
こんなに早く、その段階を終えちゃってよかったの?
と聞いてみたくなる。
新しい可能性を得てそして一つの可能性を失ったと
よろこばしく、かなしい。
一つの可能性を失ってそして新しい可能性を得たと
かなしく、よろこばしい。
記述の順序で差をつける意図はないから2パターン書いた。
ほんとうにその二つには差がないからわざわざこんなふうに書いた。
理解されるだろうか?
差が、ない。
共存している。
だから
「幸せで笑っててほしいけど、」
「もう少しその孤独な背中を見ていたかった」
と、以前、つぶやいてしまったのだ。
<エピローグ>
間違いようもなく。
その、己の恐怖や畏れと戦う姿を愛している。
けれど、
それとこれとはやはり別なのだ。